【書評】「新訳 歎異抄」親鸞・唯円(小浜逸郎 訳):他力本願の本当の意味〜kindle unlimited対象

こんにちはー。くまぽろです。

今回は仏教本!
とあるオンライン読書講座で紹介されていた本が、とても気になったので読んでみました。

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「[新訳]歎異抄」親鸞・唯円

[新訳]歎異抄 「絶対他力」の思想を読み解く
著:親鸞(しんらん)・唯円(ゆいえん)
訳:小浜逸郎(こはま いつお)

★★★★☆

読もうと思って探していたら、ちょうどkindle unlimitedに入っていました。わーい。

歎異抄たんにしょうは名前だけは前から知っていました。
新聞を読んでいたころ、よく広告で載っていたんですよね。仏教の本なのかな〜くらいに思っていました。

この本の訳をされている小浜逸郎こはまいつおさんがオンライン読書講座のような動画を販売されていて、その歎異抄の回の宣伝がすごくおもしろそうで、気になって講座動画を買ってみました。

それで「本を読んでから動画を見よう!」と思い、まずは読み始めた次第です。
 
 
簡単に言うと、仏教の浄土宗・浄土真宗の教えについての本です。

「浄土真宗と言えば親鸞」と日本史の授業で習ったのが、記憶にある人も多いのではないでしょうか。
わたしは日本史の知識がそんなに無いので、「名前だけは聞いたことある〜」という程度でした。

時は鎌倉時代。
親鸞が亡くなったあと、親鸞の弟子の唯円が世間にはびこる間違って伝わっている教えの内容を嘆いて、「親鸞先生の教えはこういうものだった」と正す、というのが本書の内容です。

kindle unlimitedに入っている方は無料で読めます(2022/6月現在)。

とてもおもしろかったです!
他力本願ってこういう意味だったのか!と目から鱗でした。

宗教のことをほとんどよく知らないし、仏教の宗派の違いもわかっていなかったので、浄土宗がどんなものか初めて知りました。

(以下では、浄土宗と浄土真宗のことを総称して浄土宗と書きます)

概要

なぜ『歎異抄』は、私たち近代日本人にこれほど人気があるのでしょうか。
いろいろな理由が考えられます。

一つは大前提として、そもそも「宗教」という精神形態が、この世を合理的・理性的に割り切って整序していこうとする志向性にさからう本質をもっているということです。

それは、近代社会の合理的な割り切り方ではどうしてもはみ出してしまう人間性の情緒的な部分に訴えかけてきます。
欲望、不安、迷い、悩み、苦しみ、悲しみ、期待感、絶望感、これらに対して、近代社会はさまざまなかたちで一応の環境や装置を用意してくれています。

しかし、それこそ人間は「煩悩具足」の存在であることをけっして免れませんから、近代社会が提供してくれる環境や装置だけで完全に満たされることはなかったし、これからもけっしてないでしょう。
おそらくそのことを、『歎異抄』に惹かれる読者たちは、直感的にわきまえているのだと思います。

–本書の「付論」より抜粋

感想

「他力本願」の本当の意味を知っていますか?

歎異抄では、仏教の宗派を大きく2つに分けて、自力聖道門じりきしょうどうもん他力浄土門たりきじょうどもんという対比が出てきます。

浄土宗が出てくるまでは、たくさん勉強して、つらい修行をしないと悟りを開けない、救われない、という教えが主流でした。
これが自力聖道門。いわゆる難行ですね。
自分の力で努力して悟りを開く、という考え方です。
強い意志や能力、それができる環境などが必要とされるので、一般庶民が誰でもできるというものではありませんでした。

対して、他力浄土門は、他力、つまり阿弥陀様の力にすがって往生する(輪廻転生の輪から抜けて、浄土に行く)という考え方です。
阿弥陀様は、仏になる際にご誓願(本願とも言う)を立てました。その内容の一つが、「私(=阿弥陀様)を信じて救われたいと願う者は必ず救う」というもので、これが浄土宗の信仰の要になっています。
阿弥陀様を信じて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればいいだけ。これなら誰にでもできます。

この「他力にすがる」というのは、自分自身で努力しないという意味に感じてしまうのですが、実は違います。というか、そもそも前提が違っています。

他力浄土門は、私達の人生はみんな業縁ごうえんによって決まっていて、善人に生まれた、あるいは逆に悪事を働いてしまった、とか、良家に生まれた、あるいは貧しい家に生まれた、とか、そもそも動物でなく人間として生まれたことなども、すべて業によって決まっていて、ちっぽけな自分たち人間が、自分たちの力でどうにかできるようなものではないのだ、という前提から始まっています。

だから、自分達の力が及ばないこの世界で、私達を救ってくださるという阿弥陀様のご本願をただただ信じて念仏を唱えよう、というのが「他力本願」の意味なんです。
 
 
そういう前提のある言葉だったのかー!と目から鱗でした。
この歎異抄を読んで初めて「他力本願」の本来の意味を知りました。
 
 
わたしは浄土宗の信仰の内容を今回初めて知ったのですが、この「能力や環境どころか自分の意志すら、自分自身が努力すれば得られるというものではない」という部分については、とても感じ入るところがありました。

「わが心のよくて殺さぬにはあらず」

歎異抄の本文にもこういう言葉が出てきます。
直訳すると、「わたしの心が良いから殺さないのではない」。
本書での訳では以下のように書いてあります。

善い心が沸き起こるのも、その人の身にもともと具わった恵まれた運命がそうさせるのであり、悪いたくらみを思いつくようになるのも、その人がこの世に生を享ける前からの、そうさせるような深い因縁に基づくのである。

現代では、「寝る間も惜しんで努力したから成功した」といったようなストーリーが語られることが、すごく多いですよね。

もちろん努力を否定するわけじゃないんですが、「たまたまその人にそういう意志と能力と環境が揃ったからうまくいった」という側面のほうが大きいのでは、とふと考えることがあります。
なぜかと言うと、自分は起業家の端くれなのですが、そういったつながりの知り合いを見ていると、元々持っている意志の力によって成功をたぐり寄せた、という印象を強く受けるからなんです。

「起業してみたい」「お金持ちになりたい」「〇〇で社会貢献したい」などの意志を持っていて、そこから勉強したり、実際やってみたり、うまくいくように様々な努力をして、成功を掴み取っている人たちの、その最初の意志と、その継続性は、果たして自分の力なのか?って思うんですよね。
その意思を持ったこと、その気持ちが継続することは、本人が努力して得た力なのでしょうか?

天才と言われる突出した才能を持った方のインタビューなんかで、本人は「努力しているつもりがない」と話すのも何度か聞いたことがあります。
楽しくて楽しくてつい毎日やってしまうとか、負けて悔しすぎてさらにがんばるとか、それが傍から見れば努力に見えるけど、本人にとってはもっと衝動に近いのでは、と。

たまたまそれに興味を持てたこと、たまたま自分の能力がそれと合致したこと、たまたま持続できる熱量を持っていること、どれも自分の力じゃなく、たまたまそういう性質を持っていただけじゃないのか、って思うんです。

だからこそ、自分がそれなりに上手くいっているなら、その果実を自分の周りだったり社会だったりに還元しないと、つりあいが取れてないんじゃないかなって思ったりもします。
うーん、なんかうまく表現できないですが。

歎異抄を読んでいて、自分の中でこれまで考えていた上記のようなこととの合致を感じて、すごくおもしろかったです。

宗教本おもしろいですね!
以上!