【書評】「幸福論」アラン:幸福とは自分で作り出すもの

こんにちはー。くまぽろです。

今回は古典から一冊。
オンライン読書講座で紹介されていた本が、予想以上におもしろかったです!

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「幸福論」アラン

幸福論
著:アラン
訳:神谷幹夫(かみや みきお)

★★★★★

幸福と関連する題材の、93のプロポ(哲学断章)からなる本です。

プロポとは「哲学的な小話」のようなもので、アラン(1868-1951、フランス)は新聞での連載などで毎日プロポを書いていました。
本書は、その書き溜めた中から「幸福」に関する話を選んでまとめたものです。

怒りや悲しみなどの感情にどう対処すればいいのか、幸せとはどういうものなのか、独自の言い回しで語っていて、とてもおもしろいです。

引用と感想

1つのプロポが3〜5ページくらいと短いので、その点は読みやすいですね。

「その点は」と書いたのは、「どういう意味??」と思ってしまうところもたまにあるからです。
言い回しが独特なせいか、翻訳がぴったりくる表現がないのか…?

正直、最初の1つめ2つめを読んでいるときは、「え、ごめん、何の話??」と思ってしまいました。笑
でも、3つめ4つめと先へ進んでいくと、言っていることが少しずつ飲み込めるようになってきて、どんどんおもしろくなりました。

以下、いくつか好きな箇所を抜き出してみます。
最後のかっこ書きは、抜き出した箇所のプロポの番号とタイトルです。

想像力という奴は、中国の死刑執行人よりももっとたちが悪い。
奴は恐怖の量を塩梅あんばいするのだから。われわれがグルメのように恐怖を味わうようにさせるのだ。
[人は二度死ぬことがないように]ほんとうの大団円カタストロフィが二度同じ点を襲うことはない。出会ったらお仕舞いである。カタストロフィの一瞬前まで、彼は災厄を考えぬときのわれわれと同じ状態であった。
歩いていた人が自動車にひかれ、二十メートル飛ばされ即死した。ドラマは終わった。もう始めもなければ、続きもないのだ。続きが生まれるのは思念によってである。

だから、ぼくが今事故のことを考えたら、まちがった判断をしているのである。ぼくの判断は、いつもひかれる寸前の、だが決してひかれることのない人間の考えなのだ。
(9 想像上の苦痛)

この話のように「想像力」と「恐怖」を題材にした話は、他にもいくつも出てきます。

実際大変な目にあっている人は、その瞬間瞬間にやらなければならないことに必死で、恐怖なんてほとんど感じている暇がない、そんな目にあっていない人が、想像で恐怖を感じているのだ、という主張です。

「死」への恐怖が特にそうじゃないでしょうか。
『ソクラテスの弁明』でも、実際死んだこともないくせに何を怖がっているのか、という話が出てきたのを思い出しました。

気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。
なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。
ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。
こんな実に簡単な運動によってたちまち内臓の血液循環が変わることを知るがよい。伸びをしたいと思えば伸びをすることができ、あくびも自分ですることができる。
これは不安や焦燥から遠ざかるためのもっともいい体操である。
(12 ほほ笑みたまえ)

この、「気分と動作は関係している」という話も何度も語られますね。
不安や怒り、焦りなどから抜け出るには、物理的に姿勢を変えたり、笑ったり、肩をすくめたり、あくびをしたりしよう、と促しています。

もちろん、それで根本の問題が解決するわけじゃないと思うんですが、落ち込んだ気分で落ち込んだ動作をすることでさらに気分が落ち込む、というループに入るっていうことを、意識せずにしちゃってる人多いと思うんです。
だから一つのきっかけ作りとしてとても実践的じゃないかなと思います。

前に読んだ、草薙龍瞬さんの『反応しない練習』でも近しい話をしていた気がします。

いかにして、自分の不機嫌に振り回されないようにするか。
形から入って気分を立て直すというのは一つの真理かもしれません。

憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。
憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。
人間の眼はこんな近距離を長く見られるようには出来ていないのだ。広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼はやすらぐのである。
夜空の星や水平線をながめている時、眼はまったくくつろぎを得ている。眼がくつろぎを得る時、思考は自由となり、歩調はいちだんと落ち着いてくる。

(中略)
学問はわれわれをそこへ導いてくれるだろう、野心にとりつかれた学問でなければ、むだ口をたたく学問、いらいらした学問でなければ。つまり学問がわれわれを書物の世界から解放し、われわれの目を水平線のかなたに向けるならば、である。
したがって、学問とは知覚でなければならない、旅立ちでなければならない。一つのもの・・は、そこにみられるほんとうの関係を通して、われわれをもう一つのものへ、さらに他の無数のものへと導くものである。
こうした河の渦巻きを見ることが君の考えを風に、雲に、遊星に運んで行く。ほんとうの学問は自分の目のすぐ近くにある小さなものにはけっしてもどらない。
なぜなら、知るというのは、どんな小さなものでも全体とつながっているというその構造を理解することであるから。
どんなものでもその存在理由を自己のうちにはもっていない。
こうして正しい動きによって、われわれは自分自身から遠ざかる。そのことは眼と同じように、精神にも健康をもたらす。
(51 遠くを見よ)

この話、めちゃくちゃ好きです。
読みながら、何もない真っ暗な原っぱのようなところで満天の星空を見ている情景を想像しました。

「一つのものが全体とつながっていることを知るよろこび」と、「遠くを見ることによって遠くに思いを馳せること、そうやって自分のことばかり気にせず、思考がくつろいで精神が落ち着くこと」を結びつけて書いているのが、自分にとってすごく新しかったです。

さて、次でラスト。

ほら、雨がちょっとふってきた。君はまだ通りにいるので、傘を広げる。それでいい、それだけのことなのだ。
「また雨か、なんということだ、ちくしょう!」と言ったところで何の役にも立つまい。そう言ったところで、雨のしずくや、雲や、風が変わることはまったくないのだ。
どうせ言うのなら、「ああ!結構なおしめりだ!」と、なぜ言わないのか。君の気持ちはよくわかる。そう言ったところで、雨のしずくはまったく変わらないだろうから。その通りだ。
でもそう言うことは君にはいいことなのだ。からだ中に張りが出てきて、ほんとうに温まってくる。
なぜなら、それこそが、どんなに小さなよろこびでも、よろこびの動作のもつ効き目なのだから。君がこうしていさえすれば、それが雨にあたっても風邪を引かない秘訣である。

だから、人間もまた雨と同じように考えるがいい。そんなこと容易でない、と君は言う。やさしいことだ。雨よりもずっとやさしい。
なぜなら、君がほほ笑んだところで、雨には何のはたらきもないが、人間には大いに力があるから。
ただほほ笑むまねをしただけでも、すでに人間の悲しみや退屈さはやわらいでいるのだ。

(63 雨の中で)

これも好きです。
「ああ!結構なおしめりだ!」のとこを読んで、なんか笑っちゃいました。笑

同じことが起きていても、自分の反応は変えられるし、さらに言えば、アランはその反応が形だけ、フリをするだけでいい、って書いてます。

「ただほほ笑むまねをしただけでも、すでに人間の悲しみや退屈さはやわらいでいるのだ」

ちょっと観点が違いますが、形から入ることでその中身の精神性が身につく、っていうのは、子どもに教えているほとんどのことがそうじゃないかなぁ。
「あいさつしなさい」とか「お礼を言いなさい」とかも最初は子どもは意味はよくわかっていないけど、やっているうちに自然と気持ちもその行動に伴うというか。
茶道や剣道なんかも形から入ることで、その精神を伝えていますよね。
 
 
長くなっちゃったので、こんなところにしておきます。

小浜逸郎先生のオンライン読書会の動画を購入しなかったら、なかなか手に取らない本だったと思うので、また新しい本、新しい視点を知れてとても良かったです。

本当にすごくおもしろかった!!
新しい出会いをありがとうございます!!

以上!