「新約聖書」〜キリストの死と復活と黙示録:kindle unlimited対象

こんにちはー。くまぽろです。

仕事やらなんやらで7月はバタバタしてて、ちょっとお久しぶりになりました。

『新約聖書』、ついに読み切りました!
というか、だいぶ前に読み終わっていたのを、やっと記事にできる〜!

内容もわりとメモしてたので、せっかくだから紹介しようと思います。
なので、今回はちょっと長めの記事になりそうです。

スポンサードリンク

「聖書 新共同訳 新約聖書」

聖書 新共同訳 新約聖書
著・編集:日本聖書協会
翻訳:共同訳聖書実行委員会

前回の旧約聖書は、神様が世界を作って、アダムから続く子孫のアブラハムを神様が祝福してさらに子孫が繁栄し、その後奴隷になっていたエジプトを抜け出してイスラエルを目指し、エルサレムに神殿を建てて栄えるけれども、だんだんと神への信仰が薄れ、国も乱れて荒廃していく・・・というお話でした(超ざっくり)。

そして、今回の新約聖書が時代としては旧約聖書の後のお話で、イエスが登場し、後のキリスト教につながっていくことになります

では、以下で章の構成と、どんなお話なのかを見ていきましょ〜。

一部わたしの解釈が入っているので、間違いがあったらすみません。

マタイ、マルコ、ルカによる福音書

新約聖書は、以下の3つの福音書から始まります。

  • マタイによる福音書
  • マルコによる福音書
  • ルカによる福音書

イエスがどんなふうに奇跡を起こしたり、説教をしたりしたのかが書かれた福音書。
話が重複している箇所がけっこうあります。

イエスは弟子を引き連れて多くの町を旅して歩くのですが、その途中で、病気の人を癒したり、盲人の目を見えるようにしたり、死んだ人を生き返らせたり、湖の上を歩いたりと、さまざまな奇跡を起こしたと語られています。

あのレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で有名なシーンも出てきます。

これは、過越祭すぎこしのまつりというユダヤ教の毎年恒例の重要な儀式の食事のシーンなんですが、そこでイエスが弟子たち12人に向かって「これから自分を裏切る者がいる」と告げます。
有名な「イスカリオテのユダ」のことですね。

また、ペトロ(イエスの一番弟子的な人)についても、「ペトロはこの後、私(=イエス)のことを知らないと三度言う」と告げます。
イエスに「一生ついていきます!」と言っているペトロが、いざイエスが捕まったときには自分も捕まって死ぬのを恐れて、「自分はイエスのことを知らない」と言ってしまうと、意志の弱さを指摘されているわけです。

そして、すべてその通りになります。

イエスはこれまでの活動から、民衆に多大な影響を与えたために、ユダヤ教の祭司やファリサイ派と言われるユダヤの律法遵守の立場の人たちから、かなり反感を買っていました。

イスカリオテのユダが裏切り、イエスは祭司達に捕まって、磔にされて死んでしまいますが、3日目に復活して弟子たちに姿を見せたのち天に昇り、神様の右に座られた、という話で終わります。

ヨハネによる福音書

イエスが布教をはじめる前からヨルダン川で民衆に洗礼を授けていたヨハネという人の話が最初に語られます。

洗礼者ヨハネは「イエスのために道を整える者」という位置付け。
イエスのことを「わたしの後から来る人がわたしにまさる。神の子だ」と知りつつも、イエス自身に促されて洗礼を与えます


ヨハネが川で洗礼を与えて説教している様子(真ん中ちょい左上寄りにいる、立って話してるのがヨハネ)

ただですね、この福音書を書いているヨハネと、洗礼者ヨハネは別の人です。

聖書にはいろんなヨハネが出てきて、正直どれが誰なのかわからない部分もあるんですよね。
(ぐぐってみたところ、「このヨハネ」と「あのヨハネ」は同一人物なのか議論がやはりあるみたいです)
あとヤコブもいろんなヤコブが出てきます。笑

その後の話はまた、イエスがどこで何をしたか、何を言ったかなど、上記の3福音書と似た話になりますが、一番特徴的なのは、「主(神様)のことを父と呼ぶなど不遜だ」と言われる場面がはっきり描かれることですかね。

新約聖書ではずっと、イエスは神のことを「父」と表現しているんですが、旧約聖書ではそう表現することはなかったんですよ。

イエスが主を父と呼ぶこと、自分は神の子だと発言することは、それまでのユダヤ教の人々からしたら、「こいつ何言ってんの??」って感じなんだと思います。

使徒言行録

ここからはパウロという、非常に熱心にイエスの教えと復活について布教した人の話になります。

最初はイエスを迫害していた側のサウロ(後のパウロ)なんですが、突然天からの光に打たれ、イエスからの啓示を受け、これまでとは真逆の熱心な信者になる胸熱展開です。
迫害してしまった過去を取り戻せないことを知りつつ、だからこそ誰よりも情熱を持って、命をかけて布教します。

街から街へと渡り歩き、異邦人にも教えを説き、信者を増やしていきます。
その過程でやはりユダヤ教の人々から訴えられ、捕まって裁判を受けるなどの苦難が待ち受けています。

この後に続く手紙の章はほぼパウロが書いたもので、新約聖書の中のかなりの文量(半分くらい?)がパウロによるものです。
読んでいるとほんとね、「ずっとパウロのターン!」って感じです。

ローマの信徒への手紙〜

ここからは手紙ラッシュです。
(聖書をこんな紹介のしかたでいいのか不安になってきました)

パウロが各地の信徒に向けて書いた手紙で、叱ったり励ましたりするような内容です。

その教えの中心は、以下のようなものです。

神の子イエスの死によって、私たち人類すべての罪は贖われた。

アダム一人のためにすべての人が死に定められたのと同じように、イエス・キリストによってすべての人が生かされる。永遠の命となる。

イエスを信じる人は、のちに来る復活の時に、死者もイエスと同じように復活し、神の国を受け継ぐ。

今は土でできた朽ちる体だが、復活後は天によってできた朽ちない体になる。

元々、人類には罪がある、という前提からはじまっているのだと思います。
アダムが知恵の実を食べてエデンから追放されて、その子孫が人類なので、そもそも罪があるのだと。

そして、神から遣わされたイエスがその罪を背負って死ぬことで、人類の罪がすべて贖われる。
その復活を信じて、イエスの教えを守るなら、復活の時が来たら、あなたは天の国で永遠の命をもらえますよ〜、という理屈(?)です。

ヨハネの黙示録

これが最後の章。
復活の時の前に起こる、世界の終わりのような災厄がどんなものかが、ヨハネが見てきたこととして語られます。
THE・終末論て感じです。


https://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11945305442.htmlより引用

説明し切れる感じがしませんが、でもすごく意味深でおもしろいので、主要なところだけ紹介します。

まず子羊が7つの巻物の封印を解きます。
1つずつ解くたびに、死を司る馬たちが出てきたり、地震が起きたりして、たくさんの人が死にます。

その後に7人の天使が順番にラッパを吹いていきます。
すると、大地の3分の1が焼け、海の3分の1が血に変わり、太陽と月と星の3分の1が失われ・・・と、ありとあらゆる天変地異が起こります。

そしてこれまた有名な、獣の刻印と悪魔の数字もここで登場します。
10本の角と7つの頭がある獣(竜)が権威を持ち、神を冒涜する言葉を吐き、この獣を拝まない者があれば皆殺しにされます。

小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。

この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。
賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。
数字は人間を指している。
そして、数字は六百六十六である。

ーーー新約聖書「ヨハネの黙示録」より引用

この獣の刻印を押された人々は、災いの中で神を冒涜する言葉を吐き、悔い改めようとしません。
こうして神の怒りが極みに達し、その当時の巨大な都「バビロン」が倒れます。

すべてが滅び、その後に神の救いがあります。

ハレルヤ。
全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。

ーーー新約聖書「ヨハネの黙示録」より引用

災厄の中で現れた竜は千年封印され、獣を拝むことを拒否して獣の刻印を受けずに殺された者は生き返って、キリストとともに千年の間統治することになります。

事は成就した。
わたしはアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。

ーーー新約聖書「ヨハネの黙示録」より引用

と玉座に座っておられる方がいい、新しいエルサレムが美しく繁栄する描写がなされます。
 
 
・・・ふぅ、だいたいこんな感じです。
大丈夫です、わたしもよくわかりません。笑

感想

いや〜、最後の黙示録すごいですよね。
これで新約聖書は終わります。

よくわかんない部分もいっぱいあるんですが、最後の黙示録を読んだことで、イエスが実際に生きている間にやったことと、その後の信徒たちの信仰とが、だんだん乖離していってるのかなとは思いました。
そしてたぶん、この聖書に書かれている内容と、現在のキリスト教会のやっていることもだいぶ乖離していると思います。

パウロの膨大な手紙が書かれている間も、イエスの死&復活から10年20年と時間が経過していると思うんですが、終末がいずれ来るというのが「いつなのか」と思ってしまう信者がいたことが窺えます。

そしてこのヨハネの黙示録を読み、さらにこれが書かれた時代から2000年経ったことを考えると・・・。
黙示録で倒れる世界は「バビロン」と名指しなのもあって、遠い昔に想定された話だな、と思いますよね。
 
 
思ったことを率直に言ってしまいますが、読み終わったとき、「巷でカルト宗教と揶揄されるようなものと、このキリスト教の終末論に違いある・・・?」と思いました。
「2000年経った現在で、まだこの終末論を信じるの・・・?」っていう。 

それで、「これは方便なのかな?」とちょっと考えました。

キリストが教え諭していたのは、神を信じること、周りの人を愛すること、不正なことをしないこと、など基本的な道徳心だと思うんです。

最初のほうの福音書でのイエスの説教には、世界の終末なんて話は出てこないので、のちの信徒が「世界の終末が来た後に救われるには、その教えを守っていないといけない」と教えた、つまり教えを守ってもらうための方便なのかなって。

でもねー、例えば、「悪いことをしたら死後に閻魔様に地獄に落とされる」というようなことなら、死んでみないと本当か嘘かわからないので、それを本当かもしれないと思って、生きている間に悪いことをしないようにする、というのはわかるんですけど。
「世界の終末がいつか来るから」というのは、「もう2000年も経ってるのに・・・?」とか「いつ来るのよ・・・?」とか、思ってしまいますよね〜。

うーん、わからぬ。
 
 
いやー、どこかで聞いた話がいろいろ詰まっていて、すごくおもしろかったですけど、一回読んだだけじゃ全然わかんないとも言えますね。笑

でもいろんなとこで聖書の話題がチラッと出てくるたびに、前よりは「あ、あの話ね〜」って思えて、それだけでも楽しいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
以上!