こんにちはー。くまぽろです。
今回は古典です!
少しずつ古典の名著なるものを勉強していきたいと思う日々。
機会があったので、『徒然草』を読んでみました。
「徒然草」兼好法師
徒然草
著:兼好法師(けんこうほうし)
★★★★☆
日本人なら誰もが名前は知っている『徒然草』。
序段の文章は、学んだ覚えがある人も多いと思います。
現代語訳:
無聊孤独であるのに任せて、一日中、硯と向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙におかしな気分になってくる。
内容は序段にも書いてあるとおり、本当に多種多様な話題が混在していて、全部で243段の文章からなっています。
1つ1つの段の長さは、ものによってまちまちですが、数行〜数ページくらい。
書かれたのは鎌倉時代末期と言われています。
この本では、前半に原文、後半に現代語訳と分けて書かれていましたが、わたしは1つの段の原文を読んだらその現代語訳を読む、という順番で読んでいきました。
さすがに最初はとっつきづらくてうまく消化できなくて、もう国語の勉強の時間だと思って、「1日十段ずつ読んでくか」と決めて読み進めました。
でも20段ぐらいまで読むうちに、和歌の話で「昔の人が読んだのは同じ言葉を使ってても趣の深さが違うよね」という主旨の段があって、「最近の若いやつの言葉遣いはなっとらん!」みたいな話に共通するニュアンスを感じて、ちょっとおもしろいなと思えてきました。
内容は先にも書いた通り、とても雑多なんですが、分類するとだいたいこんな感じです。
- 自然や、季節の行事などの風流さや美しさについて
- 源氏物語を彷彿とする、ロマンチックな恋愛話(創作やら聞いた話やら)
- 仏道修行を今行わずしていつ行うのかという話
- 自分の考え、主張
- 高貴な人の所作や言動が素晴らしい件について
- 故事や古くからのしきたりなどの豆知識
- ちょっと笑える話
いくつか以下に取り上げて紹介したいと思います。
191 夜の魅力
風流なお話の中から好きなのを一つ。
・・・(略)・・・
現代語訳:
「夜になると、物の見栄えがしない」と言う人には、たいそう失望させられる。あらゆるもののきらびやかさ、装飾、色合い、夜が最も素晴らしい。昼は、簡略で、地味で落ち着いた姿でもよいであろう。夜は、きらびやかで華やかな恰好をするのが、はなはだよいものである。人の様子も、夜の灯火に照らされた姿が、立派な人はよりひきたち、人が何か言っている声でも、暗い中で耳にする、気配りのある言い方には、心惹かれる。物の薫りも楽器の音も、夜が一段素晴らしい。
夜ならではの魅力のお話。心にくし。
風景だったり、季節の習わしだったりの「こういうところが素敵だよね」という段は、日本人のほとんどが読んでいて「いいですなぁ」と思うのではないでしょうか。
112 諸縁を放下すべき時なり
人間の儀式、いづれのことかさりがたからぬ。世俗の黙止しがたきにしたがひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。
日暮れ塗遠し。吾が生すでに蹉跎たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂とも言へ。うつつなし、情なしとも思へ。謗るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
現代語訳:
世間のしきたりはどれも逃れがたい。だからといって、世のならわしは無視できないというまま、欠かさぬようにと努めれば、願いごとも多く、身体も窮屈で、心の余裕もなくなり、一生は些事へのつまらぬ義理に遮られて、空しく終わってしまうであろう。
日は暮れても行く先は遠い。わが生涯は挫折ばかりであった。すべてのしがらみを捨て去るべき時である。信義も守るまい。礼儀も考えまい。この気持ちを理解できない人は、私を狂人とでも言うがよい。正気を失い、人間らしい思いやりを失った、とでも思うがよい。非難されても苦しむまい。褒められても耳に入れるまい。
この段は何を言っているのかというと、要は「すべてのしがらみを捨てて仏道修行に励むべき」と語ってるんですね。
後半は特にかなり強い語気です。
この主張、「人生短いんだから仏道修行いつやるの?今でしょ!」という話は他の段でも何度か出てきます。
とても切迫した感じで著者の思いが強く出ている部分で、印象的でした。
日暮れ塗遠し、かぁ。
157 事に接して心は起こる
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むることもあり。かりに今、この文を披げざらましかば、このことを知らんや。これすなはち触るる所の益なり。心さらに起らずとも、仏前にありて数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。
事理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。
現代語訳:
筆を手に取ると自然と何か書くものだし、楽器を手に取ると音を出したいと思う。盃を取れば酒を飲もうと思うし、賽を取れば博奕を打ってみようと思う。人間の心は必ず何か物事に触れることを契機に起こる。だから、かりそめにもよからぬ遊戯をしてはならない。
ほんのちょっとでも仏典の一句を見ると、何となく前後の文章も見るものである。そんな時、たちまちにして長年の過ちを改めることもある。もし今、その仏典を広げて見なかったとしたら、この過ちを知ることがあろうか。これがつまり、機縁を得たことによる利益である。信仰心が少しも起きなくとも、仏前に座って数珠を手に取り、経を手にすれば、怠けている間にも善業が自然と実践できるし、乱れて集中できない心であっても、縄床に着いていれば、知らず知らずのうちに悟りの境地に達するはずである。
現象と真理とはもともと別ではない。外に現れた姿が、かりに道理に背いていないならば、内面の悟りはいずれ必ず出来上がってくる。さきに挙げたような仏前での型通りの行為に、いちいち不信を言い立ててはならない。むしろ、これを敬い尊重すべきである。
心は必ず事に触れて来る。
このような「物事とはこういうものだ」という考え方や主張の話もいろいろあります。
これは好きなのを取り上げたんですが、「妻帯するな」とか、けっこう激しい主張もありますね。
40 栗ばかり食べる娘
現代語訳:
因幡国にいた、何某の入道とかいう者の娘が、美貌であると聞いて、たくさんの人が求婚し続けたが、この娘は、ただ栗ばかり食べて、米の類を少しも食べなかったので、「このような変わった者は、人に嫁ぐべきではない」といって、親の入道が許さなかったということである。
え??
ごめん、何の話??
と思わず言葉に出てしまいそうになる、謎の段。笑
ほんとに何の話なんだろう、これ。じわじわくるからやめてほしい。
他にも、壺を頭にかぶって取れなくなった人の話など、ちょっと笑える(?)話があったりします。
感想
おもしろかったり良いなと思ったりしたものをメモしながら読んでいたので、他にも紹介したいのはいろいろありますが、長くなってしまうのでこの辺で。
興味わいた方はぜひ読んでみてください。
キラキラネーム批判の段もありました。珍しい字なんか使いたがるのは浅学の人だ、とぶった斬られていました。笑
わたしは囲碁が趣味なんですが、話に囲碁が出てくるときもあります。
一事を成し遂げるには、という話で、碁で小さい石を捨てて大きい石を取る例を出したり。
あと、囲碁や双六を好むのは悪事って言われてたり。笑
たぶんお金を賭けているケースがすごく多かったんでしょうね。
双六は、現代のわたしたちが知っているすごろくじゃなくて、碁石を使ったゲームらしいです。
それから、以前読んだ『歎異抄』の宗派である、浄土宗の法然上人が出てくる箇所もありました。
歎異抄は、法然の弟子の、親鸞の弟子の、唯円が書いた本なので、そうかあの本よりは少し前かぁ、とつながってきました。
こうやって他の本とリンクしてくるのが、いろんな本を読んで楽しいことなんですよねぇ。
そんなこんなで最初は戸惑いながら読み始めましたが、意外とおもしろくて、ちゃんと最後まで読めました。
徒然草はこんな本なんだなぁと経験できて良かったです。
以上!